むかしの日本人はおなかの中の「虫」に悩まされた。
平安時代の日本では、天皇や上流貴族も赤痢に苦しみ…【和食の科学史⑤】
■短命が目立つ北条氏の謎
虫のせいとされた病気の一つ、赤痢は、細菌ないしアメーバ原虫による感染症です。やはり中国大陸から日本に入ったと考えられ、天然痘をはじめとする疫病や、大規模な飢饉のあとで体力が落ちた人々をおそいました。奈良時代の737年には、「麻疹が流行したら続いて赤痢が発生するから気をつけよ」という命令が太政官から出ています。
おもな症状は下痢で、そこに血や膿が混じって赤くなることから赤痢と名づけられました。汚染された水や食べもの、食器などから感染し、1960年代までは国内で毎年2万人近くが赤痢で死亡していました。現代でも世界全体を見渡すと、上下水道の整備が遅れた熱帯地域を中心に毎年約70万人が赤痢で亡くなっており、このうち約80パーセントが10歳未満の子どもです。
平安時代の日本では、天皇や上流貴族も赤痢に苦しみ、記録によると、大納言藤原道綱は一晩に20回もトイレに行ったそうです。当時の医師は小豆粥とか、ナマコの腸であるコノワタを食べるよう指示しましたが、症状を多少やわらげるのがせいぜいだったでしょう。抗生物質がなかった時代には手も足も出ない病気でした。
赤痢の原因が明らかになるのは、日本の細菌学者、志賀潔(しがきよし)が赤痢菌を発見する1897年のことです。
鎌倉時代の執権北条時頼も赤痢に見舞われました。執権とは鎌倉幕府で将軍を補佐する役職で、幕府の事実上の最高責任者です。時頼は20歳の若さで執権の座についたものの、30歳のとき赤痢にかかって地位を息子に譲り、出家しています。
まだ若く体力があったからか、幸いにも時頼は健康を取り戻すと、引き続き政治の実権を握りました。僧の姿となって諸国をめぐり、内情を視察したという伝説もあり、とりわけ有名なのが「鉢の木」の物語です。
旅をしていた時頼が貧しい鎌倉武士の家に立ち寄ったところ、主人は、旅人が時頼であることに気づかないまま、大切にしていた梅の木を薪として燃やし、もてなします。そして、こんな暮らしをしていても幕府への忠義は忘れていないと熱く語り、時頼の心を打つのです。
こんな物語が生まれるほど、鎌倉幕府でひときわ大きな存在だった時頼ですが、没年は意外に早く37歳です。平均寿命が短かった当時でも、小さいうちに亡くなる子どもを除いて考えると37歳で世を去るのは早いといえます。この傾向は北条氏の家系で広く見られ、先代の執権経時(つねとき)は23歳、時頼を継いだ長時も34歳で亡くなり、時頼の直系に限っても、元寇をしりぞけた時宗が33歳、貞時が40歳、高時が29歳で没しています。
執権の激務に加え、毒を盛られた可能性も指摘されていますが、北条氏が近親者との結婚をくりかえしていたことから、何らかの遺伝子の異常を受け継いでいたとも考えられます。